スペクトラムの時代の「家」に向けて ー「障害の家」松本卓也×大崎晴地 トークイベント後編「締め付けることによって、開かれている」

触ることで、身体の境界を確認する

松本 触覚によって自分の身体の境界を確認するというのは重要なのでしょうね。猫は狭いところが好きだし。自分の身体の境界が分からない場合、触ることによって、自分と外界との境界線を把握できるというのがおそらくはポイントなんでしょうね。

フランスで行われている自閉症の治療で、「パッキング」という非常に変わった治療法があるんです。パニックの状態になっている自閉症の子どもを、濡れたシーツで包むんです。冷たいシーツで包むことが拷問みたいだという批判もある治療なんですが、実際、それをやると子どもたちはよく落ち着くんだそうです。これも、身体や触覚のことを考えると非常に面白いです。冷たいシーツで包むと、自分の体温によってそのシーツの温度が変わってきますよね。それによって、自分の身体と外界の境界を確認できて落ち着くんだということでしょう。パッキングは一見、拷問的に見えるんだけども、それが自分の身体と外界を分けるための装置として機能していて、それがないとうまく生きていけないっていうタイプの人たちがいるようなんです。もうちょっと洗練されたやり方やガイドラインが出来れば、決して捨てたものではないのではないかと思うのですが、やはりこのご時世では風当たりが強いようです。

大崎 そうですね。これまでは割と引きこもりとか、私的空間に閉じこもる、出てこないっていう状態。だけど、今話している自閉症のあり方というのはもっと視覚的に遮断するだけじゃなくて、触覚的に締め付けたり。自分自身も自分から隠れられないじゃないけど、そういう意味では逆に開かれているような感じもしていて。

松本 締め付けることによって開かれている。

大崎 うん。そういう姿勢をもっていないと、とても非定型発達の建築っていうのは無理だなという感じがありますね。

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photo by Takahiro Tsushima

意味はわからないけど、読むと楽しい

松本 哲学における独我論にも似てくるんだけど、あるタイプの独我論というのは、「自分しかいない」とか「自分以外はみなロボットである」という考えではなくて、むしろ世界のすべてが自分だと思っているようなものだという考えですよね。その状態に対する〈外〉をどう考えるか。自閉症を参照することによって、閉じこもっている自分限定的な状況からはじめて他者というものが現れるという逆説が考えられるようになる。

ジェイムズ・ジョイス(※9)の作品、特に『フェネガンズ・ウェイク』は、英語だけじゃなくいろんな外国語を使って、意味の水準では理解しようのない途方もない言語芸術を作りあげています。あれも、ある意味では建築ですよね。徹底的に私的言語なんですよ。プライベートなものであって、ジョイス本人にしか意味が分からない、伝わらない私的言語としてある。だけれども、ジョイス自身があれを朗読しているテープを聞くと、彼が実に楽しんでいる様子が分かるんですね。実際ジョイスが朗読したテープの一部がネットで聴けるんですけど、すっごく楽しそうに音読してるんですよ(笑)。視覚で文字を追って理解するのではなくて、口腔や咽頭の感覚でそれを再現して体験できる。後期のラカンは言語の意味ではなく享楽に注目しましたが、そのときに彼がモデルにしたのがジョイスであったことはその意味で必然的であったのだろうと思います。

大崎 それはクルト・シュヴィッタース(※10)にも言えて。メルツバウという自分の家のなかを洞窟のようにした作品を作った人で、実際に見た人はほとんどいない、記録にしか残っていないほぼ伝説みたいな家なんですけど。彼も声とか音の作品も作ってるんですよね。意味というよりかは音自体の響きを作品にしていて、すごく今ジョイスの話に通じるなと思って。

松本 なるほど。

大崎 言語自体が建築であるというか、意味としてよりも文体という建築。そういったパフォーマティヴな芸術作品と、同時に家自体の建築の設計をパラレルに考えていくということなんだろうなという気がします。

松本 そうですね。新しいものが見えてくる感じがしますね。

大崎 ちなみに排除アートって、ようするに公共空間にホームレスが居坐れないようにトゲトゲみたいなものが置かれたりとか、あれもある意味で障害だと思うんですけど、ただあれは記号そのもので出来ていて、そこにいちゃいけないということが建築されているわけですよね。障害の家は記号ではなくて、もっと生活する身体にとっての手続きとして、人々の方から空間を考えていく、ということをしている。

松本 そうですね。排除アートはまあ露骨に排除の記号として機能していますけど、露骨でない排除的な建築もたくさんありますよね。私は京都に2016年から住んでいるんですが、たまに東京にやって来ると一番疲れるのは新宿駅ですね。新宿駅って、止まることができないんです。しかも人の流れがちゃんと整理されていなくて、大きな柱の後ろの死角からどんどん人がやって来るから常に体の緊張を強いられてしまう。関東にいたときにはあまり気づいていなかったけど、久しぶりにくると、改めて、ああ凄い疲れるなと感じます。人間ってよく東京に住めるなと今更思っているんですけど(笑)。

でも、ここは立ち止まりまくる場所なのがいいですね。今も子どもたちがそれぞれの場所でめちゃくちゃやっているし。……だんだん静かになってきましたね。最初にキャーキャーと騒いでいても、だんだんとここに住むような感じになってきている。

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photo by Takahiro Tsushima

「自閉的都市」はできるか

大崎 都市設計に関わる人はあえて目的地に直線で結ぶんじゃなくて、迂回路を作ったりして人間の動線をコントロールしたりとか、人それぞれの行動のあり方を、物からまさに設計しないといけない。そういう意味で自閉症は私的な自身の空間の境界から考えないといけないから、都市とは掛け離れているかもしれませんが。

松本 自閉的都市ってできるんですかね。

大崎 逆に自閉的都市っていう意味合いであれば、概念的にはありうると思うんですけど(笑)。

松本 この「障害の家」が広がっている都市(笑)。

自閉的都市を考える場合、そこにおいて公共性はどう担保されるのかを考える必要がでてきそうですね。プライベートとパブリックが分かれているというのが「定型発達」的な建築だとすれば、ここはそうはなっていない。この「障害の家」の場合は何というか保護区という感じになっていますね。ここはすごくロケーションが良いですよね。自然に子どもが来ています。子ども食堂もこういう場所でやると一番良いですよね。子どもが普段から来ているところで。しかもオープンスペースでね。同じように施設や病院を考えることができるとすれば、どのような都市が生まれるのか。

大崎 芸術やアートというよりは現実そのものを組み替えるというか、家そのものを変えて、招き入れる空間そのものが出迎えてくれるみたいな、そういう設えみたいなことになればいいなと。それが何かバリアをもった空間なんですけど。偶発性や出来事というのはそこからはじめて考えないといけない。

これまではカフカの「掟の門」みたいに、そこに誰かが来たら城に入らせてくれない門番がいて、なぜそこを通してくれないかというと来た人のために自分は立っているんだということを門番は言うわけなんですけど、それは比喩的に20世紀の思想の中でよく使われてきた不条理のメタファーだった。だけど、今は僕が考えたいのは建物自体が門番というか、建物自体がその人のために招き入れるんだけど、それがバリアとの共存になっているという、そういう設えみたいなものを考えていて、客を招き入れる閾(敷居)自体が更新されるような、建物と人との関係性をつくっていきたいというふうに思っています。

(※8)テンプル・グランディン
ボストン生まれ、アメリカ合衆国の動物学者、非虐待的な家畜施設の設計者。コロラド州立大学准教授。女性。自閉症を抱えながら社会的な成功を収めた人物として知られている。

(※9)ジェイムズ・ジョイス
20世紀の最も重要な作家の一人と評価されるアイルランド出身の小説家、詩人。小説『ユリシーズ』が最も知られている。

(※10)クルト・シュヴィッタース
シュヴィッタースは、ドイツの芸術家・画家。廃物などを利用したコラージュ「メルツ絵画」が有名。

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