「どもり」を治す魔法はないし、いらない ―『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』公開記念トークイベント

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7月3日(火)東京大学で、映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の公開記念トークイベントが開催されました。この映画は、しゃべろうとすると言葉に詰まってしまう高校一年生の志乃を、主人公とした物語。

イベントには、学生吃音サークル・東京スタタリング主催の山田舜也さん、原作者の漫画家、押見修造さん、6月に『どもる体』を刊行した研究者の伊藤亜紗さん、吃音外来で診療、この映画の吃音の監修者でもある医師の冨里周太さんの4名が登壇。全員、吃音当事者でもある4人の話は、それぞれ自身の体験からはじまりました。

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吃音は、全人格と結びついているもの

冨里周太さん(以下、冨里) ぼくは18、19歳のときに特に困って、ほんとに人前で志乃ちゃんみたいに自分の名前が1分2分、言えないっていうことをよく経験しました。

押見修造さん(以下、押見) ぼくのしゃべれない感じは、中学1年、2年生くらいからはじまった、というか、そこら辺から自覚があるんですけど。そのころがいちばん症状としてはひどくて。授業中にさされて、言葉はわかっているんですけど出てこなくて、体に力が入っているのをクラスで爆笑されたりとか、何遍もありました。

でもずっと人にも隠していましたし、自分で見て見ぬふりをしていた。それをこの漫画を書くまで、ずっとしまっておいたっていう感じですかね。この漫画は、完全に自分のことを書こうと思って書いたので、ほかの人に取材とかもしてません。自分のことを赤裸々に書こうと思って書いた感じです。

あとがきに、吃音がなかったら漫画家になれなかったみたいなことを書いたんですけど。吃音って、ある種全人格を支配しているような、全人格と結びついているような感じがあって。症状だけ切り離してなかなか考えられないと言いますか。映画もその辺を非常にくんでくださっているのがうれしいなと思いました。

伊藤亜紗さん(以下、伊藤) わたしは小学生くらいのころに連発(※1)がひどくて。中学、高校くらいは難発(※2)になって。でも言い換えっていう方法を磨いて。悩むというよりは、ゲーム感覚でこの状態でどう言葉を出すかゲームみたいなことをずっとやっていた感じですね。

だから割と自分の体が思い通りにならない、どたんば感を楽しむみたいな。そういう感覚があります。しゃべっているときも、いつもこの体からなんの言葉が出てくるんだろうって観察している感じがあって。いつも自分の体を試しているっていうか。

山田舜也さん(以下、山田) ぼくは、伊藤亜紗さんとはタイプが違って。吃音については悩んでいたと思います。恥ずかしいっていう情動は特に吃音とつながりが深いと思っているんですね。それはどもることが恥ずかしいってこともあると思うし、恥ずかしいときにどもりやすいっていうこともあると思うんですけど。

思春期になって吃音との付き合い方が難しくなる人が多いというのも、発達の段階で羞恥っていう感情を強く意識するようになってから吃音との付き合い方が難しくなるっていうことなんだろうとぼくは理解しているんですね。ぼくもそうだったと思うんです。

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親や先生、周りの人に知ってもらいたいこと、してほしいこと

冨里 診療していると、親が責任を感じちゃっていることが多いのが、つらいなと。自分のせいなんじゃないか、自分の育て方なんじゃないかって。もちろんそれはある程度否定されてまして、おおもとのどもるかどもらないかっていうのは体質的な部分が大きいよっていうのは明らかになってきているので、そうではないよと伝えることがまず第一なのかなと思います。

あとは年齢を重ねて行く中で、かなり吃音に対する捉え方は変わってくるので、そこにいっしょに向き合ってあげるのが、いいのかなと思います。病気があるから治すっていう立場になってしまうと、なかなかぎくしゃくしてしまうと思いますね。

押見 学生時代、先生にどうされたかったか…。ぼくはなるべく触れられたくなかった。割と中高はそんな感じだったんですけど、大学に行って、一人笑ってくれる友だちがいて。ぼくが、どもって体がぐねぐねしている感じがかわいいと言ってくれて。笑いに転化するきっかけがあって、ちょっと楽になったかなぁ。

それまではとにかく触れられたくなかった。だから先生とあらかじめ信頼関係があったり、下地があればいいと思うんですけど、なんもないところでいきなりつっこまれても、逃げ出したくなるだけかなぁと思うんですよね。あんまりそこだけ取りださないでほしいっていうのを思っていましたかね。

山田 吃音って、全身がゆさぶられるような身体的な現象だとぼくは思っているので。だから人によってどういう風にされたいとか、どういう風に吃音と付き合っているのかっていうのはとても差があるんだろうなと思って。あまり一般化しないで、その人その人全体をとらえて、接してもらえるとありがたいなと個人的には思います。

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コンプレックスを抱えて、生きる

押見 コンプレックスがある方が表現者に向いているみたいなことを言われると、ちょっと反発したくなる気もするんですけど(笑)。

自分の場合は、できるだけ名前のついていない感じっていうんですかね。「コンプレックス」というと、いろいろこぼれてるようなものがあって、「恥ずかしさ」って言っても、恥ずかしさの中にはいろんなものが入っていると思うんですよね。

その辺をできるだけ赤裸々にといいますか、誠実にかたちにすると、それに触れた人の中の何割かに、ささりまくるということがある。自分のことを描いているって思ってくれて。昔から表現の世界には、そういうのが、ぐるぐる回っているような気がするんですよね。
そのぐるぐるまわっている中に自分も入りたいなぁと思ってますし、自分で認めたくないことを認めるのは難しいんですけれども、それをいかに認めるかっていう物語が、自分としては読みたいですし、そういうものに触れたいなと思っています。

伊藤 吃音に限らず自分の欠点って、顔とか身長とか体重とか、体にフォーカスがいって、わたしは身体論が専門なので、そういう観点からコンプレックスとか恥ずかしさの問題を考えています。

体って、ほんとに思い通りにならないもの、コントロールできないのもので。この世に誕生した瞬間に最初に自分で選択したわけではないのに、この性別で、この顔で、この体質で、みたいなことがもう条件として与えられているわけです。しかもその体をずっと背負って生きていかなきゃいけなくて、最後には死んでしまうっていう究極にコントロールできないものがやってくる。そのコントロールできなさと、どう付き合うかっていうところに自分の知性を使いたいなっていう気持ちが常にあって。

とはいえ、実際研究していると実感するのは、いかに自分の体と向き合うことが難しいか。
自分と向き合うということすら、コントロールできないんだなってすごく思います。

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最後に、この映画を誰に見てもらいたいかという問いに、押見さんの答えは「自分が嫌いだと一度でも思ったことはある人はみんな見てほしいなと思ってます」。映画は7月14日(土)、新宿武蔵野館ほか全国順次公開です!

『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』
出演:南 沙良 蒔田彩珠 /萩原利久 /
小柳まいか 池田朱那 柿本朱里 中田美優 / 蒼波 純 / 渡辺 哲 /
山田キヌヲ 奥貫 薫
監督:湯浅弘章 原作:押見修造 「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」 (太田出版)
脚本:足立 紳 音楽:まつきあゆむ 配給:ビターズ・エンド
制作プロダクション:東北新社

写真はすべてⒸ押見修造/太田出版 Ⓒ2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会

(※1)連発…同じ単語や音を繰り返して発音してしまうこと。

(※2)難発…最初の言葉を発するときに詰まってしまうこと。