職場開拓は「好きな人を口説くように」 ―大垣勲男さん(前編)

写真

「よくコツを聞かれるんですが、『好きな人を口説くのといっしょ』と言います。どうやって相手をその気にさせるのか。障害者を雇いたくない社長。家を貸したくない大家さん。お金を出したくない行政マン…いろんな人がいます。それぞれ、アプローチが違います。耳元でささやくようなトーンの方がくすぐるかもしれないし、実は拳銃ひそめてますよ、っていう方がいいかもしれません」。

どこかの営業マンの言葉のようだが、これは北海道伊達市にある「社会福祉法人伊達コスモス21」の常務理事、大垣勲男さんの言葉。約40年の間先頭に立って、障害者が町で働き、暮らせるように、町の人をいわば“口説き”続け、職場を、住まいを、彼らの生活を支える仕組みをつくり続けてきた。

相手の不安と不審を先読みする

そもそも伊達市で障害者の「地域移行」が全国に先駆けて進んだのは、1968年日本ではじめての大規模入所施設、「北海道立太陽の園」がつくられたから。そのため、入所施設に暮らす人たちの中から1人でも多く地域で暮らせるようにサポートしていこうという動きが、いち早く起った。

大垣さんは、もともと太陽の園に勤務、働きはじめて4年目のときに就労担当になった。
「わたしが引き継いだときに、太陽の園にいる400名のうち、常に2割、約90名の職場実習を維持しなさい、と言われました。割合というよりも3万5000人の小さな町で、90名が通う職場を見つけられていたことがすごいと、いまでも言われます」。そして、その中から毎年10名以上就職させて、住まいを見つけ、入所施設から町へ、彼らの暮らしを移していった。「自立支援法ができる前はもう何十年も社会復帰率、地域移行率は1%未満、地域に出すノウハウを日本の障害福祉の現場は十分持っていなかったんです」。

そんな中で、どうやって職場を開拓していったんですか。そう尋ねると返って来たのが冒頭の言葉。「そこには確実にスキルがあります。飛び込みもあれば、電話帳から見つけて電話する場合もあれば、やり方はいろいろ。セールスマンと同じで、10軒まわって1軒話を聞いてくれればいい方です。いきなり障害者雇用してくださいっていうと、当時は『大丈夫か』っていう言葉がよく戻ってきましたねぇ『あばれないか』とか、『もの盗まんか』とか、ようするに理解がないんです。理解がないっていうより、知らないってことです。相手が何に対して疑問ではなくて、不安と不審を持っているかっていうことを先読みする。見学までこぎつけると、達成率50%。その先に雇用があると」。

写真

健常者がつくりあげた文化への適応障害

晴れて仕事が決まり、住まいが決まっても、それだけでは終わらない。
「知的障害は言い換えれば適応障害なんですよね。わたしたち健常者がつくり上げた文化への適応障害であって、一生涯に渡ってなんらかの支援がいる。障害が消えるわけではないですから。相談に乗ってくれる人やサポート体制がずっと必要になるわけですね。でも当時その仕組みが、伊達の町も、日本という国自体も、どこも十分ではなかったんです」。

たとえば、ごはん1つとっても、自分で料理をつくれる人もいれば、何度練習してもやはりつくれない人もいる。つくれなければ一人暮らしを諦めなくてはいけないのかというと、ごはんを頼めるサービスがあればいい、と方向性を切り替え、支援体制をつくる。どこまでを必ず身に付けなければいけないものとし、どこからを支援で補うのか。試行錯誤を繰り返しながら、伊達の町は、障害者がサポートを受けながら、生活できる仕組みを整えて行った。

※『コトノネ』19号の特集で社会福祉法人伊達コスモス21の取り組みをご紹介しています。

写真:渋谷文廣