「仕事はそっちのけ、写真のことしか頭になかった」70歳で発見されたろうあの写真家 井上孝治さん(前編)

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「井上孝治」という写真家を、知っているだろうか?
大正8年(1919年)福岡生まれ。福岡の春日原で「井上カメラ店」という店をやりながら、写真を撮り続けたアマチュア写真家だ。数多くの写真コンテストに入賞、その実力は確かだが、いちアマチュア写真家として、生涯を終えるはずだった。

無名の写真家から、時の人に

しかし70歳のとき、押入れの奥に眠っていたネガが、ひょんなきっかけで、福岡の百貨店の広告キャンペーンで大々的に使われることに。戦後復興期、昭和30年代の福岡の町の記憶を閉じ込めたような写真は話題となり、一躍時の人となる。

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74歳で亡くなるまでの四年間、写真集の発売、福岡と沖縄での写真展の開催、フランス・パリの写真フェスティバルに出展。亡くなった後もフランス・アルルの国際写真フェスティバルで招待作家として写真展を開催、アルル名誉市民章を受賞。フランスの映画監督の目に留まり、ドキュメンタリー映画がつくられたほか、東京、京都、スイス、アメリカ・ロサンゼルス、など国内海外問わず、写真展も開かれ続けている。生涯を終えるまさにその直前に、井上孝治という写真家は“発見”されたと言えるだろう。

孝治は、幼いころの事故が原因で、聴力と発語を失ったろうあ者。音のない、言葉を話さない世界で生きる彼にとって、写真は、好きで好きでたまらないものであると同時に、自分の感じていることを、まじりけなしに表現できる、切実に必要なものでもあった。

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井上孝治、37歳のとき

「あの人は撮影に出たら、鉄砲玉と同じ」

井上孝治は酒樽をつくる裕福な家に生まれ、3歳のとき、階段から落ちた事故が元で耳が聞こえない、発語ができないろうあ者になった。
手に職をつけようと、聾学校の木工科で学び、家具職人の道に進むつもりだったが、父親の趣味だったカメラの虜になり、戦後米軍キャンプの写真部に勤務。DPEとカメラ修理の技術をつけ、昭和30年(1955年)36歳のときに、福岡市の春日原駅前天神商店街に「井上カメラ店」を開業した。

孝治さんの写真への思いは「好き」という言葉では生ぬるい。長男の一(はじめ)さんは、父親のことを「家族よりも何よりも、写真が大事だった人」と言う。
写真を現像するといった井上カメラ店の仕事は、「父がうまい具合に母に暗室作業を教えて」(一さん)、妻のミツエさんが担当。孝治さんは毎日、ふらりとどこかへ撮影に出かけてしまった。あまりに家にいないので、末っ子の孝子さんは、孝治さんを父親だと思っておらず、「時々うちにいるこの優しいおじさんはいったい誰なんだろう」と思っていたほど。一さんも幼いころ、父親といっしょにお祭りに行ったものの、撮影に夢中になって忘れられ、泣きながら自力で帰ったという思い出があると言う。

子どもの世話をしながら、カメラ店の仕事もやる。目の回るような日々だったミツエさんは、お金を稼ぐでもない道楽の撮影に出かける孝治さんのことを、「あの人は撮影に出たら鉄砲玉と同じ」と、もう諦めるしかなかった。

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「鉄道の駅のすぐ前にお店があって、駅のホームに上がるのに1分もかからないんです。だから時間がありそうだと思うと、すぐにカメラを担いでホームまで行って、上りの電車に乗れば天神や博多に、下りに乗れば大宰府といった風に、自由奔放に出かけて行った。そうじゃなかったら、こんなに作品は残っていない。だからわたしは、父に好き勝手やらせてくれた母にも、感謝しているんです」(一さん)
当時ブームになっていた写真コンテストにはいつも入選。賞金や賞品が毎月のように届いていたというが、生活費にあてるでもなく、当時高価だったフィルム代に消えた。

そんな孝治さんの人生そのものともいえる写真は、写真集になることも、写真展が開かれることもなく、押し入れの奥にネガのまま眠っていたが、約30年後偶然のきっかけから、“発見”されることになった。

※参考文献『音のない記憶―ろうあの天才写真家井上孝治すの生涯』黒岩佐比子著