【NPO法人シェルパ古市貴之 連載コラム 楢葉町でぽくりぽくり】白か黒か迫ること 

naraha

私が住む福島県双葉郡楢葉町は福島第一原子力発電所事故に伴い設定された避難指示区域の解除から間もなく3年を迎えようとしている。つまり自分の家に戻ること、居住が国から許されて3年。少しずつ商業施設や医療機関が再開し、荒れ地と化していた田畑に人が戻り青々とした苗が生活の周りにある震災前の日常が戻りつつある。廃校になった小学校の空き教室を借り、避難先から双葉郡に帰町した主に支援学校に通う元気なキッズ達を預かる(と言うかいっしょになって遊んでいる)活動も拠点を変えながら4回目の夏となった。

映画が好きで、子供たちとは、ジブリや『ルドルフとイッパイアッテナ』などを見るのだが、先日家に帰って『Little Forest』という映画を観た。岩手の山間地帯の農村で収録された一人の女性の1年の生活の流れを記した映画だ。生きるために食べる。食べるために作る。そのシンプルな生き様を、丁寧に描き出した内容は、「自分たちの生活とは」「生き様とは」を色鮮やかな山村の風景をもとに静かに問いかけてくる。食料を作るために、土を耕し、手入れをし、収穫する。その収穫物を様々に加工し、1年の糧とする。野の物は自分たちできちんと捌き、ありがたく命を頂戴する。なんでも買える現代にあって、動物も植物も、命をいただくことで、自分たちの命をつないでいる感覚を呼び覚ます。お金がなくても自給自足で生活を補える。しかもとても魅力的に。

この双葉郡では、今は野菜の出荷も、動物の出荷も、以前よりは出来るようにはなっているが、まだまだ不安を感じている声も多い。当然だと思う。自分たちが守ろうとする者の健康を脅かすかもしれないのだから。それでも、なんとか出荷できるように、より安全であるように懸命に働く生産者の方達がいる。私の父は長男で震災前は農業もしていた。米をつくること先祖代々の土地を守ることを自分の使命だと思っていたにちがいない。一人一人が、どのように生き、どのように生を全うしたいのか。私自身も「どう働くのか」ではなく「どう生きたいのか」を震災後問いかけられ続けているように思う。

「どこで暮らすのか」を決断する要因は、その時々の人生の場面によって変わる。高卒後の就労や進学で、家を離れるかもしれない。早ければ、高校進学の時点で、親元を離れ、夢に進むかもしれない。一度離れても、離れたから分かる故郷への想いに戻ることもあれば、そのまま自分の場所を他に作ることもある。勿論、故郷に帰りたい人も多い。一人の人間の生き方を白か黒か迫ることに何の意味があるのか。いったい誰の都合なのか。そんなことが許されていいはずがない。例えばある一時期そこに暮らしていたからといって、その場所へ帰ることを限定されるものでは本来ないはずであると思う。

『帰還促進』というフレーズが福島に溢れている。段階的な避難指示解除、仮設住宅の終了と撤去。早く地元に帰るように促されているように感じる。誰のために?「(国)もちろん故郷に帰りたい人のために」。避難指示解除地区とは年間20ミリシーベルトの被ばく量以内の地域だと震災後に定義された。たとえ1ミリでも20ミリでもそれぞれの被爆リスクがある。決して安全とは言いきれない。避難中での暮らし方の転換・子供の進学・転職など、一概に帰還を促せないほどに、時間は過ぎてしまっている。まだまだ不安な要素が数多くある。それぞれの暮らしている地域で、安心して生活を組み立てられることへの支援の仕組みが継続することは、どれだけ親が安心し、その親を見て子供も安心できることかと思う。せめて心の基地だけはそれぞれの近くにあって欲しい。粛々と課題に取り組まなければならないけれど、ここからは言い訳かもしれないけど、直近の未来の想像が難しいとき、思い切って100年後の子供達に残せるものを想像してみるのも1つの手ではないだろうかとも思ってしまう葛藤の3年間。2018年夏の午後でした。