脳梗塞に倒れた百貨店マンが見つけた新しい目標は、障害者雇用だった――「東急百貨店 チームえんちか」と、松田成広さん(前編)

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東急百貨店たまプラーザ店に、「チームえんちか」はある。「縁の下の力持ち」を意味して名付けられた「チームえんちか」は2013年4月に立ち上げられた。東急百貨店の障害者中心の部署だ。神奈川県の養護学校を卒業した6人のチーム。そのうち4人は重度の障害認定を受けている。東急百貨店としては初となる障害者の部署を取り仕切るのは、55歳の松田成広さん。障害者雇用は初めての経験だという。松田さんの働く様子を少し見ていると、歩き方がおかしいことに気がつくだろう。そう、松田さん自身、2級の身体障害者手帳を持つ障害者なのだ。東急百貨店の障害者雇用を支えていたのは、障害者だった――。

34歳の働きざかりが突然倒れた

松田さんは34歳の若さで脳梗塞に倒れた。3日間意識をなくしたが一命をとりとめ、しかしその後障害に悩まされることとなった。東急百貨店に入店して10年目、仕事もちょうど脂の乗った時期で、その時は青葉台にできた専門店の店長を任されたばかりだった。「会社としても新しい取り組みで、売上面では課題がありましたが、その分やりがいがありました」。その店はジーンズを中心にアメリカンカジュアルを扱う。百貨店本体とはまた異なる品揃え・客層を相手にすることに燃えていた。

店長として忙しく働くある日、突然頭に激しい痛みを感じたと思ったら、そのまま倒れていたという。「気がついたら病院のベッドの上で。体中が管で繋がれている状態でした」。しかし松田さんがことの重大さに気づくのは、もう少し後のことになる。奥様は主治医から「もしかすると一生車椅子かもしれない」と聞かされていたのだ。体調が回復してもベッドから起き上がれない自分。松田さんも事態を把握し始める。マイホームのローンを返しはじめてわずか3か月。小2と幼稚園の子どもがいた。「一度は絶望しました。どうしよう、と途方にくれました」と松田さん。それでも、少しずつできることを、と懸命のリハビリに取り組んだ。3か月ほどのリハビリで、車椅子生活は免れた。その後1年の自宅療養のあと、職場に復帰する。

もう売り場には戻れない

「売り場の仕事が好きだった」という松田さん。百貨店の華といえば売り場。それももちろんだが、人と接することがなによりも刺激的だったという。しかし、右半身の麻痺により足を引きずって歩かなければならない。片手が満足に使えないため、お客様との品物の受け渡しにも不安が残る。体幹障害により、常に体が後に引かれているような感覚があり、バランスがとれない。これらの障害があっては、売り場の仕事はできない。間接業務を担当することになった。

松田さんは、慣れない業務にも懸命に取り組んだ。特に店のプロモーション企画担当の仕事は面白かったという。店の売上を大きく左右する、チラシや店内ポスターなどの企画を取り仕切る仕事は、百貨店の事業に大きく貢献している、という実感を得ることができた。カスタマーサービス部門では、お客様の声を売り場にフィードバックすることで、売り場とつながることができた。もちろん、10年培った売り場での経験も生かすことができた。

上出来だ。一時はもう働くことができないかもしれない、と絶望した。職場に復帰しても、自分はどんな貢献ができるのか、と不安だった。今は売り場には立てないけれど、会社に貢献しているという実感も自負もある。二人の子どもも、もう社会人になった。このまま終われる、終わってもいい。でも。

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もう一度、燃えたい

「50歳になったでしょ。自分のキャリアの終わりが見えてきた時に、なぜだろう、もう一回燃えたい、って思ったんです」。松田さんはそう言った。もう1回、燃えたい。そのテーマは「障害」だ。そう、自分のことだ。松田さんには強い思いがあった。およそ20年間、考え続け、戦い続けてきた「障害者が働く」というテーマに、自分なりに取り組みたい、自分なりの答えを出したい。時間を見ては、同業他社や、異業種の障害者雇用の取り組みを見学し、本を読んで学ぶ毎日を過ごした。1年ほど経った2010年の秋、社内の「自己申告制度」を使って、自分の思いを訴えた。自身が障害者になったことで、障害者雇用に興味を持ったこと、他企業では障害者雇用の動きが進んでいること、自分が障害者雇用の業務に携わりたいことなどを書類にして会社に提出した。それが当時、障害者雇用に対する取り組みを見直していた会社の目にとまり、事業部として障害者雇用部門を立ち上げることになった。それが「チームえんちか」だ。

※2013年11月発行の『コトノネ』8号に掲載された記事を再編集しています。

写真:信澤邦彦