【連載コラム ただいま暗中模索中!ぷらぷら作業療法士の鈴木洋介】 「希望を持つこと」

ぷらぷら日記-01

お休みを頂いていた数ヶ月の間、ちょっとした変化があった。一つは、都内の大学院に合格をし、短期間ではあるものの、海外留学のチャンスをつかんだこと、そして、もう一つは、パーキンソン病である父親が変化したことである。

2013年の12月、血液のがんで母が亡くなった。7月に病気がわかってから、あれよあれよという間にいなくなってしまい、心の方は現実についていけなかった。当時、すでにパーキンソン病だった父は、動きづらい身体にも関わらず、八百屋という仕事をなんとか続けていた。きっと、家族のためにという理由でいつも朝から夜遅くまで働いていたのだろう。それでも、私は、息子の誕生日も覚えていない、息子の将来のことに興味を持たない、ひび割れて黒く汚い指をした父親が嫌いだった。

家に一人きりになってしまった父は、寂しさや病気への不安を宝くじやパチンコで紛らわせようとした。病気も進行し、転倒や失敗を繰り返すようになり、何十年も従事してきた仕事を辞めざるをえなかった。「夜に枕元で子供たちが遊んでいる」「誰かに見張られている」と話したり、布団を濡らすようになってしまったり、どんどん変わっていく父親を受け入れられなかった。私は、「一人で何も出来ないのは、今まで、全部、母親に任せっきりにしていたせい、自業自得だ」と父を責めながらも、心の何処かに、暑い中も寒い中も休まず働いていた父親のことを想っていた。早朝、市場へと出かけて行くとき、部屋にきて、眠っている私の布団を直していたことを想っていた。だから、結局、どんなに疲れていても、仕事の後に父の家に行って、夕飯だって作ったし、諸々ある申請書類の作成や様々な支払い業務、父の減っていく貯金への対処等に向き合った。向き合いながら、「自分ばかり」と孤独感で辛くなっては、父親を罵り、罵った日の夜は、自己嫌悪と哀しさで眠れなかった。もう一度、父親と向き合おうと誓うも、仕事中も関係なく、助けてくれ、助けてくれ、と電話をかけてくる父親に、「息子の立場を考えもせずに自分勝手な父親」という長い間しまい込んでいた想いが爆発する。爆発し、自己嫌悪し、そんなことを繰り返す日々が辛かった。父の前では、作業療法士にはなれなかった。

その時、私は私で、もう、すでに35歳も過ぎているのに、「今度は作業療法士として、またここに留学するんだ!」と、29歳の時にデンマークの青い空を見上げて誓った夢を追い続けていた。作業療法士は、人の作業の営みを見つめ、困難な人生を送る人々に向き合う仕事だと信じていた私は、障害や年齢で、向き合う人々を分けていく働き方が嫌だった。病院を辞め、年齢や障害の枠を超え、地域というフィールドにも挑戦していた。週6日の非常勤連続勤務。それでも飽きることがなかった。

父親の存在は、そんな自分の夢を脅かす脅威そのものであった。「夢だなんてバカらしい、もう諦めよう…」と思う一方で、夢に向かうことで犠牲にしてきたこともあり、「頑張れ、洋介、希望を持とう!」と、結局、なんの根拠もないのに、自分に言いきかせていた。

父は、軽費老人ホームへの入居が決まったのも束の間、施設の網戸を破って行方不明になった。夜中、保護されているという警察署で、車いすに座っている小さくなった白髪の父。いつもなら想いが爆発するところが、その日は、受け入れるしかないんだなと思った。申し訳なさそうに「閉じ込められると思って」と話す父に、そうだよね、怖かったよね、と優しくなることができた。

人生とは不思議なもので、こうなってほしいと信じていると、おのずと自分の望む方向へ状況が向かうことがある。それが、大学院の合格であった。妥協しなくてはいけないこともあって、結果、3ヶ月ほどの短期間ではあるけれども、作業療法士として、ヨーロッパの大学院のコースにも参加できるチャンスがもらえた。振り返れば、ここに至るまでにたくさんの人生の岐路があった。その時、その時で、支えてくれた人たちも沢山いて、専門家であったり、友人であったり、同僚であったり、私は、彼ら彼女らがいなかったら、先に進めなかったと強く思う。

そして、ある日、父に大学院に合格したこと、短期間だけだけど、留学をしようと思っているから、お父さんにも応援してほしいと伝えた。その翌日、施設長から、「お父さま、今朝から、妙にはりきっていらっしゃいますが、何かあったんですか??」と軽費老人ホームの施設長から驚いた様に話があった。リハビリに対しても、積極的に取り組むようになっていた。目に見えてわかる変化。父と息子という関係性もまた変化しているのだろう。

2010年、デンマークの青い空を見上げて誓った夢は、8年の歳月をかけながら少しずつカタチになろうとしている。母が亡くなってからは、しんどい日々が続いたけれども、たくさんあった小さな階段をその時その時のペースで上がってきたように感じ、あれから、間も無く、ちょうど5年を迎えようとしている。

それは私だけではない。
父も同じように小さな階段をたくさん登ってきたんだと、今、ようやく思える。

希望を持つこと。
日々、作業療法士として関わるクライエントの中には、希望を持てず、絶望の中にいる方々もいる。様々なものの喪失感からくる痛みや哀しみを同じように感じられなくても、その痛みや哀しみを自分の体験と結びつけて想像することはできると思う。そういえば、意識のない母の顔を眺めていた時、夜中、看護師さんが私の側に来て、彼女がまだ幼いときに亡くなった母親のことを話してくれたことを思い出す。希望を生み出し、支えていくのは、ほんのちょっとした瞬間だったりすると、私は思っている。クライエントが見失いそうな希望に寄り添うことができれば…。正解はない。暗中模索の日々は続く。

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孫の七五三に車いすで参加する父