【NPO法人シェルパ古市貴之 連載コラム 楢葉町でぽくりぽくり】不安を、押し込めない

naraha

先日、県内でメンタルヘルスについての講演を拝聴した。内容は震災によるストレス症候群についての解説や子供の保養支援の必要性など多岐に渡ったが、印象に残ったのは福島で生きていく上で原発事故に伴う放射能についての不安感を口に出すことに「考えすぎだ」「だったらすぐ避難すれば良いのに」「そんな発言をすれば前向きに福島で生きようとしている人が不安になる」などの反応があり、誰のものでもない自分の生き方や決断をジャッジされているように感じてしまう人々が多数存在するという現実があって、それへの抵抗感から心を閉ざしてしまいがちな人々も多数いると言うことだ。

子供を保養に出すことが「福島は危険なところ」と言っているようなものだと非難されもする。拝聴しながら自分を取り巻く生活や地域の現状を思い返していた。放射能への不安はどんな対話を以てしても完全に拭い去ることは出来ないし、むしろ不安の反応としての行動を否定されてしまうことへの無力感のいかに悩ましいことか。原発を誘致し電源交付金の恩恵を受けていた地域であることも踏まえて、事故後の東電や国の責任があやふやなままの現状や背景に「しょうがない」と無関心となることが、半ばぶん投げ的なポピュリズムを生み出し、ゆらぎを排除し対立や分断の構造を加速させる地域をつくることになっていないか。その構造が結果的にも誰かの都合に利用されていないか。自分の言い訳にしていないか。事実関係の確認が不十分であるのに相手に過度な攻撃的な態度をとってしまっていないか。もうすでにそんな地域になってしまっているのではないか。

このような福島における震災後に生まれたこのモヤモヤ感を感じさせているものの正体は何なのか。そもそも福島だけが特別ではないと思うし、世界中どこでも生き辛さの解消の課題は存在する。しかし仕事柄「地域づくり」について考える機会が多い中で、現在の福島を取り巻く風潮には福島県人しかも双葉郡出身者の自分としても違和感を感じる時が多い。全国の皆さんからの支援を受けて今がある大前提で、あえて例を挙げれば福島県産の食物の「食べて応援」がある。私は震災直後、ある就労作業所の再開に携わり商品である豆乳ドーナツを全国の皆さんに買っていただいた。本当にありがたかった。勿論のこと自分も家族もそのドーナツを食べ、自分自身が食べても大丈夫だと自己判断したものについて県産の食物を食べて生活をしてきた。しかし様々な議論の中で汚染からの健康被害のリスクがあることの事実が「食べて応援」や「福島安全論」のアナウンスの中にどれだけ含まれているのかと感じる。不安であることを不安と言えずに福島の姿を発信する構図は、結果的に自己責任論を助長し、強いられた選択下という事実を隠し、真の責任追及を放棄する危険性があることこそもっと発信されるべきではないか。

奈良に住む福祉の仕事の先輩からいただいたアドラー心理学の本を読み返している。不安なことを不安だと遠慮なく言える地域づくりへの配慮も大事にしながら、葛藤や閉塞感、原因を言い訳にしない考え方がこれからの福島にはとても合っているように思えた。おススメです。