【連載コラム ただいま暗中模索中!ぷらぷら作業療法士の鈴木洋介】 「共感すること」

ぷらぷら日記-01

先日、初の函館へ。深い霧の立ち込めるなか、頂上だけ顔を出す函館山。もしかしたら引き返すかもしれないという機内アナウンスに不安を感じつつ、なんとか無事、空港に到着。

目的は、修平に会うこと。

修平とは、リース遠征隊(先月の日記参照)のイベントで昨年の夏に会った。同じデンマークの学校に留学していた関係もあるけど、なんだか初めての感じがしなかった。(修平のコラム(2003年、20歳のとき、学校の騎馬戦による事故で頸髄損傷。車いすユーザーとなって15年目である。))

「JINRIKI」を使って登山へ挑戦中

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今年の正月、さて、どこに旅行へ行こうか…と考えていたとき、デンマークから帰国したばかりの修平に会おうと連絡をしてみた。すると、7月にリース遠征隊を故郷である函館に招き、講演会を企画しているから、アシスタントヘルパーとして手伝って欲しい(飛行機代出します!)と返事が来た。なんというラッキーな機会!正月早々、夏をずっと楽しみにしてきた。

金曜夜から火曜夜まで、リース遠征隊・北海道ツアーに同行した。初日は修平宅に宿泊。改築された部屋から、使いやすく工夫された道具まで、作業療法士としては、へぇ!の連続だった。

例えば、入り口には電動リフト、ベッドからすぐに移動できる浴室があり、便器の高さや便器脇の手すりの高さなど、トイレにおいても修平の意見を盛り込んだそうだ。

上肢のみで運転できる修平の自動車では、車いすの形状に合わせて作成された移乗用ボードが敷かれ、車内の電気スイッチは、棒をつけ、ひっかけるだけで操作できるようになっていた。どの車にもある跳ね上げ式の肘置きは、修平にとってはアクセル操作を安定させ楽に行う上で最重要なものであることもわかった。指にひっかけ楽に引き上げることができるよう、靴下には紐がつけてあった。手に装具をつければ、丈夫な滑り止めにより車いす操作が円滑になり、両手で日本酒のパックも一気に呑めた(笑)

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一方、食事やパソコンでは、握る、つまむが十分に行えなくても、フォークを固定する道具(ユニバーサルカフという)はあえて用いず、フォークを使いこなすことができた。パソコン操作も、キーボード操作スティックは用いず、長年のストレッチ効果で「程よく伸びる感じ」になった人差し指を使いこなし、ウェブデザイナーとして働いている。洗髪時には、程よい圧と強さで髪を洗いたいと、市販の「頭皮エステ」(パナソニック社製)を利用。持ち手に指をひっかけて洗髪していた。洗体用のタオルは100均にある両端に紐のついたナイロンタオルを使用。膝上テーブルにはIKEAの市販品を利用。無印良品の冷蔵庫や電子レンジは、取手がおしゃれなコの字型をしており、指をひっかけることで、難なく夜食を温められる。

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「最初は、まずできるようになるために作られた道具(自助具)を使う必要があったし、今でも使うときがある。でも、それを使わないとできないという風にはなりたくない。」と教えてくれた。確かに、ユニバーサルカフや特別な形状のフォークは、レストランに置いていない。

補助器具(福祉用具)や自助具に頼りながらも、「特別ではない」方法を目指したい。修平の一貫している価値観に出会い、そんな、ハッ!とする経験をしていく中で、自分が今までの仕事場面で、専門職という被り物をし、これが正しい、と押し付けていた姿があぶり出された。

「全部、長野の総合リハビリテーションセンターで教わったんだ。あそこに行っていなかったら、自分自身、何ができるかわからないままだった。」とも教えてくれた。家族や友人のみならず、セラピスト、支援員さん、自動車教習の先生、整形外科の医師、売店のおばちゃん。そして、修平にとって、同じ脊髄損傷の仲間たちもまた大きな存在である。このリハセンター卒業生で、修平が「師匠」と呼ぶ人からは、こんなことも自分でやれるんだ!という気づきを教えてもらったといい、それを励みに、自ら長野のリハセンターへ入所できるよう交渉をすることができたという。センターの仲間たちとは、よく介助なしで外出したそうだ。それまで自分の力で車いすをこいで外に出られるとは思っていなかった修平。「車いすの人間だけで外出するのが初めてだった。みんなで助け合いながら、障害者になる前のようにバカみたいなことをするのが楽しかった。障害者になってからはバカみたいなことをするのが難しくなってて…」と話し、「だから、介助なしで20分も離れたコンビニへ行けるようになった時、仲間たちと公園で乾杯したビールは最高だった!俺たちは自由だー!って(笑)」とあの頃を振り返る。修平にとって、たくさんの応援団。チーム修平in長野。きっと、楽しさだけではない、様々な思いを「チーム修平」全員が分かち合っていたのかもしれない。

旅の期間中、デンマークから来たリース遠征隊メンバーと観光もした。函館競馬場では、車いす用の特別席ではなく、みんなで車いすを持って階段を降り、レーン目前で観戦した。温泉には組み立て式のシャワーキャリーで入り、みんなで協力して湯船に浸かった。修平にとって、15年ぶりに浸かる温泉。そんな時間を共有する中で、自分の仕事、むしろ自分の人生の中に芯に置きたい生き方が見えてくる。

物理的なバリアは人で解決!

物理的なバリアは人で解決!

ある日の夜、修平が、受傷直前、20歳の時の写真を見せてくれた。「このぴーんと伸びた指」と、装具をつけた手で画面を指差す。「しばらくは、車いすになる前の写真を見られなかった。すぐに涙が出てきた。ようやくです。」と話してくれた。

受傷直前、「命」のポーズをする20歳の修平を35歳の修平が解説中

受傷直前、「命」のポーズをする20歳の修平を35歳の修平が解説中

ある日を境に、人生が大きく変わった瞬間。そして、15年の時間の中に、いくつもの山があり、笑顔の修平のうしろに、その山を乗り越えようとする姿がイメージされる。

作業療法士の仕事で出会う対象者も、そのうしろに、いくつもの山を抱えている。「こんな体で情けないねぇ」という90代の方のうしろに、「大東亜戦争」を生きぬき、戦後、復興のため、家族のためと、働き続けてきた姿を思い浮かべる。パニックになって自分の頭を叩きながら泣き叫ぶ自閉症の彼のうしろに、自分でもこの状況をどうしていいかわからないんだという声と息子を想うお母さんの顔を思い浮かべる。介護の大変さの中でも、夫に向き合おうとする妻のうしろに、若かりし頃の二人の笑顔を思い浮かべる。

帰り、函館空港まで修平が運転して送ってくれた。
あるお寺の前で、修平が「ここに母ちゃんがいるんだ。仕事でいつも通る時に母ちゃん行ってくるね、って言うんだ。」と話してくれた。修平は事故の後、がんで母親を亡くしている。「僕はお母さん子だったから…」と言う言葉に、思わず、心の中で「自分もそうだったんだ、修平…」とつぶやく。旅の期間中、修平とあからさまにお互いが突然に母親を亡くし、本当はとても寂しかった、本当はとても辛かったと言う話をしていない。していないけれど、おそらく、多分、無言で共有する車の中で、「お互い、そういう時間を過ごしてきたんだよね、寂しかったよね、辛かったよね」と、共感していたような感じがした。

修平と修平のお父さんと。お土産にもらったいかめし

修平と修平のお父さんと。お土産にもらったいかめし

修平と旅を共にする中でテーマになったこと、それは「共感」だったのだと思う。作業療法士という仕事をする上で、いかに対象者の人生そのものに歩み寄れるかということを大事にしてきた。しかし、いくら経験年数を重ねても対象者自身にはなれない。歩み寄れないまま終わってしまうこともある。しかし、毎回、気づきがあり、学びをえることも多い。旅のどんな場面においても、テーマになった「共感」。相手の心を想像し、見えない中で共通点を見つけていくこと。喜びや悲しみを一緒に感じてみようということ。作業療法士という仕事は、そこを土台にし、いわゆる専門性というものを対象者と共有していく仕事なのかもしれない。ありがとう、修平。

※ぷらぷら日記は9月はお休み、次の更新は10月の予定です。

これまでのお話は、こちら
【連載コラム ただいま暗中模索中!ぷらぷら作業療法士の鈴木洋介】「患者という言葉」
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