なんにもしなくても、ただいることが「シゴト」 ー久保田翠さん

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静岡・浜松市の「クリエイティブサポートレッツ」は、全国からその取り組みが注目される福祉施設。代表の久保田翠さんは、「子どもを産むたびに人生が変わってきたんです」と言う。

子どもに、見透かされた

1人目を妊娠したとき、久保田さんはバリバリ働いていた。東京藝術大学美術学部大学院環境デザイン科を修了後、妹と2人で地元・静岡で環境デザイン事務所を立ち上げ、夜中まで仕事に没頭する毎日。東京に事務所を構える人が多い中、「自分が好きな町に住んで、自分の好きな町のことをやりたいなと思ったんです」。仕事が大好きで、24時間仕事をしていても飽きないタイプ。だから結婚して、子どもを妊娠したことがわかったときも、出産後3カ月くらいしたら保育園に預けて、仕事に復帰するつもりだった。「そうしたら、それを娘が感づいたらしくって。3カ月経ったらミルクをぴたっと飲まなくなっちゃったんです。見透かされていたんですよね」。

仕事の取り返しはつくけれど、子育ての取り返しはつかないんだよ、という母親の言葉で決心して、仕事を1年間休むことにした。
「向き合おうと思ったら、それまでずっと泣き止まなかったんですが、ぴたっとおとなしくなりました。ちゃんと子育てをしてみると、意外と自分は子育てが好きなんだっていうことにも気が付いて。すごくかわいいなって」。

だから、2人目の妊娠がわかったときは、1人目のときの教訓を生かして、準備に万全を期した。保育園も決め、仕事も前もって1年間休むことをみんなに伝え、産休に入った。しかし出産してみると、予想していなかったことが起こった。長男・たけしくんは重い障害を持って生まれてきたのだ。

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「知的障害は治るものだと思ってた」

「口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)」という口唇の一部に裂け目が現れる障害があったたけしくん。手術が必要だと東京に病院に行くと、たけしくんの顔を見たお医者さんに、久保田さんは開口いちばんこう言われた。「お母さん、もう隠してもしょうがないから言うけど、この子は知的障害もありますよ」。そうは言われても、当時久保田さんは「知的障害」がなんなのか、ピンとこない。それよりもまずは口唇口蓋裂の手術のことで頭はいっぱい。結局母子いっしょに入院しての手術を3回重ね、治すことができた。

「当時、わたし『知的障害』っていう言葉を知らなかったんです。口をきれいに治してもらえたので、知的障害にも名医がいるんだと思って。静岡県中の病院を回りました。そしたら病院の先生たちに『何言っているんだ』ってすごく怒られて…」。

病院を回っていくうちに、知的障害は「治す」ものではないと理解した久保田さん。とにかく自分がこの子を育てるしかないと、病院通いを止めて、いっしょに過ごす日々がはじまった。「いまみたいに福祉サービスも充実していないので、行けるところがないんです。仕事も1年休むはずだったのが、2年、3年となって…」。

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子どもに居場所がないと、ママにも居場所がない

それまでずっと働いてきた久保田さんにとって、「ママコミュニティ」も、驚きだった。「ママさんって、子どものことは話すけど、自分のことをしゃべっちゃいけない雰囲気があるんです。すごく息がつまるような気持ちになりました。それに障害のある子がいることを、親戚に言えないとか、責められるという話もよく聞きました。お母さん教室で集まると、みんな、ぼろぼろ泣くんです」。

久保田さんは、自分も含め、障害のある子どものお母さんたちは、社会に居場所がない、ということに気が付いた。「わたしは雇用均等法がはじまって、女の人も当たり前のように企業に勤められますって社会に出ていった世代なので、すごく引き戻された感じがしました。それで、『お母さんたち、もっと社会参加したくないですか?』って聞いてまわったんです(笑)。そしたら、みんな、わたしだって社会に出たいけど、それにはまず自分の子どもが幸せじゃないとって。自分以外面倒を見る人がいなくて、子どもが社会に出られないのに、わたしだけ社会に出られるはずがないじゃないですかって言われて」。

子どもも、お母さんも両方、安心していられる場所が必要なんだ。久保田さんは、動いた。そして賛同してくれるお母さんたちと、2000年に立ち上げたのが「レッツ」のはじまりだ。
久保田さんは言う。「わたしは、障害のある人というのは、『あなたにとって「役に立つ」ってどういう意味?』とか『生きるとは?』と言った問いを投げかける存在だと思っています。何もしなくても、ただいること、それが彼らの『シゴト』だと思うんです」。

※『コトノネ』23号(8月23日発売)の新連載「コトノネ観光課」で、クリエイティブサポートレッツさんを取材しています。

写真:加藤友美子